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白鶴亮肢

 新聞はずっと取り続けていますが、新聞小説というのはほとんど読む習慣がありません。ずいぶん昔に、三浦綾子の「氷点」を読んだかなあ、という記憶くらいです。
それが、今は朝刊のページの下の方にある小説のところをまず開きます。ある時、ふと目に留めると「白鶴亮翅」というタイトルが目に入り、ん?なんで、白鶴亮翅なんだ?と気になったのです。それは多分、始まってから5日目くらいだったので、古新聞を探し出して一回目から読み出しました。
 多和田葉子さんは名前では知っていましたが、それまで読んだことはありませんでした。偶然にも、時間があると聴いているラジオのスペイン語講座中級編で、多和田さんのことが話題になっていました。日本語とドイツ語で自由に小説を書く人、と。多和田さんは自由自在に二つの言葉で考え、表現することができる、しかも詩や小説で。うらやましい! 私もスペイン語という外国語は少しはやっていますが、スペイン語でものを考える、ということはほぼないです。スペイン語で寝言言ってたよ、と家人から言われたことくらいはありますが。
 で、「白鶴亮翅」にもどると、これは太極拳や気功の動作の名前の一つだから、私はいつになく惹きつけられたのでした。太極拳は毎日、早朝に神社でやるのがすっかり日常になっています。、動作の名前はなかなか憶えていませんが、白鶴亮翅は有名なポーズの一つです。私たちが行っている気功の中に「太極十五勢」というのがあり、十五の動作の11番目が白鶴亮肢です。白い鶴が羽を広げて披露する、というくらいの意味でしょうか。亮は明らかにする、明るくする、みたいな意味で、うちの息子の名前でもあります。音からえらんだ名前でしたが、意味を知る中国の人は「いい名前だ」と言ってくれます。ともかくこれは私のとても好きなポーズです。からだの中が上に下にと伸びていく感覚が心地よいのです。この気功を私たちに教えてくださった故焦国瑞先生の表演は本当にのびやかな鶴そのもので、涙が出てくるようなものでした。
 名前に導かれた小説の世界。今日の回には、ドイツで映画の出演をすることになる「わたし」が太極拳気功学校に行ってほしいと頼まれる、というくだりがあって、あ、ついに来た!と、なんだかドキッとしたのでした。この先、どうして白鶴亮肢なのか、私にとってのナゾが解かれていくのでは、と楽しみです。ナゾが解かれてしまう前に、とりあえず、思いを書き留めておきたい気持ちになって、取り急ぎ書いています。さて、どうなるんでしょうか、ワクワク!
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3.11をわすれない

 11年目の3.11です。あの日、私は新幹線の中にいました。岡山に着く直前に息子からメール。「大地震、大丈夫?」と。彼は私が車中にあることは知らずに東京にいると思ったのでしょう。何が起こったのだろう・・・。わからないままに伯備線に乗り換えました。実は松江にカニを食べに行こうと思っていたのです。乗客は誰しも携帯で連絡を取り合っていました。不安をかかえながら松江に着くと、駅構内の大画面に津波の様子が映し出されていました。呆然・・・。東京はどうなっているんだろう。夫も息子も娘も出かけた先、職場で大変な思いをして家にたどり着いた、あるいは帰れずに近くの知り合いの家に泊まった、などの状況が少しずつ分かりました。まだ小さかったネコのチャロのことが心配でした。ガラス戸でも開いて外に出てしまったのでは? 落ちてきたものに押しつぶされているのでは? と気が気でなく、カニどころではありませんでした。新宿から2時間かけて戻った娘が、真夜中に二階のベッドの奥からお腹をへらしてチャロが出てきた、と報告してくれ、胸をなでおろしました。松江で反原発の運動をずっと続けてきた友人は、テレビに映し出され、煙をあげる原発の姿を見て「だから言わんこっちゃない」と悲痛な声を上げていました。そんなわけで、地震の揺れには遭遇しなかった私も家に戻り、本や食器が散乱しているのを目の当たりにして、ことの重大さに再び呆然。本当に昨日のことみたいです。
 それから11年。二年前からはコロナにかき消されてしまったよう。そして今年はロシアのウクライナ侵攻に、コロナもかすみ、3.11の記憶はさらに隅に追いやられてしまったようです。今こそ、3.11に福島で起こったことに全世界の人たちが思いを馳せ、こんなことを絶対に繰り返してはいけない、とロシアによる原発攻撃を阻まなくてはいけないのに。チェルノブイリを経験したヨーロッパの人たちは、福島のことにもとても敏感でした。毎年夏に講習のために行っているフランスやスイスでは、福島はどうなっているの? どういう支援ができるの? と問いかけられました。被災地で役立てるようにとガイガーカウンターを贈られ、毎年「福島のこどもたちのために」とユーロのカンパをもらいました。ウクライナの原発の破壊、核兵器の使用など、決してあってはならないことが、ひょっとして現実になってしまうかもしれないという恐怖がある中、どんな気持ちでいるでしょうか。それなのに、EU諸国ややアメリカは、武器、兵士をウクライナに送ることしか考えないのでしょうか。日本は、防弾チョッキを送るのではなく、まずは「核兵器禁止条約に、どこの国にも遠慮せずに、批准しなくてはならない、と。それが3.11の日にまず思うことです。
 「3.11をわすれない」と、毎年アピールとカンパの活動を続けている地域のグループが、先週日曜日に千歳船橋駅の広場でゆったりとした活動をしていました。今年は、私たち「福島の子どもたちとともに・世田谷の会」が世田谷で続けている「ふくしまっ子リフレッシュinせたがや」の活動を支援してくださるということで、私も会の活動についてビデオで話をしました。福島の子どもたちを世田谷によんで、公園の緑の中で思いっきり遊んでもらおう、というプロジェクトを10年前から続けている会ですが、この二年間、コロナ禍で、世田谷では全然リフレッシュできないということで実施できていません。早く再開したいのですけれど。そんな中、忘れないためのこういう活動にとても力づけられます。忘れるのが得意な日本人ですから。あんなに大変なことを経験し、復興などとは程遠い現実があっても、「復興の証として」オリンピックをごり押しで開催し、福島で起こったことを「なかったことにして」しまいます。子どもたちは自由に外で遊ぶことができず、甲状腺がんの検査も、放射線とは関係ないからと、打ち切られてしまいます。大丈夫だとばかり、原発からの汚染水を海洋放出することにし、除染した土を再利用するなんて、許されるのでしょうか・・・。10基の原発が再稼働され、原発を輸出しようとしている日本。11年前をわすれないでいるなら、決してそんなことはできないはずです。

ネコの旅立ちのこと、そして二つの映画のこと

鳴かず飛ばず、またまた半年経ってしまいました。書きたい、伝えたいことを、さまざまな通信を出すごとに結構記しているので、ブログの存在をついつい忘れてしまいます。恐る恐る、前回のブログ(2021年8月です)を開いてみると、拍手!がこれまで以上にあったのを見つけ、書くことはつながる意味もあるのかしら、と再認識しています。
 20年5月28日に夫が旅立ってしまい、それから一年半、夫の残りのいのちをもらったと信じていたネコのチャロがすっかり元気になったと思っていたのですが、それは希望的観測だったのか、今年のお正月3日に、彼の後を追うように旅立ちました。2年ちょっと前、私たちがヨーロッパでの夏の講習から戻ってきて、チャロの調子がよくない、と病院に連れて行ったら、まさか!の糖尿病と診断されました。毎日、朝、夜と人間と同じようにインシュリンの注射を欠かさずに打ち、それでも、夫がいなくなってから、病院に行くこともさしてなく、元気だったのですが・・・。もっと頻繁に病院に行っていればよかったのか、いや、やっぱり糖尿病だったから・・・、いろいろな思いがめぐります。最後は私の腕の中で息を閉じました。私がチャロのことを大好きだったように、彼女(雌猫)も私を大好きでした(と思います)。うちを訪ねてくる友人たちが、「弥生さんを見る目が違うね。うっとりしてる」なんて言っていたくらい。チャロの中に稔さんが入ったね、と何人もが感じていたようです。私もそう思っていたので、大きな支えでした。彼女が突然旅立ったら、二人が同時に逝ってしまったようで、ものすごい喪失感です。もうすぐ二か月になりますが、いない彼女を家の隅々に探しているような毎日。完全な家ネコでしたから、部屋の間のガラス戸を、通れるくらい開けておく癖が抜けません。9時になると、あ、注射だ、と思います。外から戻っても玄関で迎えてくれたチャロがいないのに気が付くと、思わず泣いています。そんな毎日・・・まだまだ時の流れを待つしかないのでしょう。同じ経験をした人たちがみんなそう言います。薬は時だけ、と。

 チャロの話をしようとは思わなかったのですが、なんだか綴り始めるとそっちに気が行ってしまいます。家族がいなくなると、本来大好きな映画を観る気分にもならなかったのですが、これは行かなきゃ、と思った二本の映画のことを書こうとおもって、久々のブログです。
 今日の映画は「テレビで会えない芸人」。松元ヒロさんの舞台「Standing alone]は、ほぼ毎回紀伊国屋ホールに通っているし、11月に行った時にドキュメンタリー映画のことも取り上げられ、撮影のクルーも来ていたので、なんかすっかり観たような気持ちになり、みんなに宣伝までしていたのですが、実は今日が初めて。ヒロさんとは、2010年にピースボートの旅で水先案内人仲間としてご一緒して以来の「仲良し」です。その時の船が故障ばかりで、ニューヨークで5日間くらいエンジントラブルで停泊、ようやく動いてベネズエラに来て、私たちを乗せてくれたと思ったら、ほどなくしてまたストップ。日本での日程が詰まっているヒロさんは、船が動き出すのを待つことができず、テンダーボートで船のお腹から脱出。パナマに行って飛行機に乗る、という綱渡りでした。ヒロさん、これ読んでね、と別れる時に渡した本「父ゲバラとともに勝利の日まで」が、その後のライブの時のネタになった、という私には忘れられない、愉快な思い出です。
 そのヒロさんの映画ですから心待ちだったのですが、なにせ、ネコのことで悲嘆に暮れる毎日だったので、ようやく今日に。ヒロさんの郷里である鹿児島の鹿児島テレビが製作したテレビ番組が、もっと多くの人に見てもらおうと映画になりました。テレビに出られない、というのにはもちろん理由があって、テレビに出るためには、局やスポンサーの言うなりになり、筋を曲げ、忖度し、自粛する、というのが当たり前の日本ですから、ことごとくそれには組しないヒロさんは「ひとり立ち」という道を選択します。舞台で見た場面がちりばめられ、練習風景や、ヒロさんを訪ねてくる人たちとの、なぜ松元ヒロの今があるのか、という話や、高校時代の恩師を鹿児島に訪ねる場面・・・。永六輔さんも立川談志師匠も出てきます。談志師匠の「他の人が言えないことを代わりに言ってやるのが芸人だ。お前を芸人と呼ぶ」。この言葉が最高にうれしかったというヒロさん。そう、他の人が言ってないですもん。本物なんだ。
 「憲法くん」、必ずヒロさんが語る憲法の前文。永さんは「ヒロくん、9条をよろしく」と、ヒロさんにバトンを託しました。「空気を読む」世の中にあって、「おかしいことは変だ、という」ことをヒロさんは徹底して貫きます。私たちも、ヒロさんにならって、おかしいことはおかしいという、間違っていると思うことは、違う、という。そのことをあらためて教えてもらいました。それも、難しいことを言うのでなく、ふつうの言葉で、ふつうの人たちに言えばいい。ヒロさんのこの映画が広まれば、必ず大きな力になりますね。きっと紀伊国屋の舞台はすぐに満席になってしまうだろうけれど。ヒロさん、ありがとう!
 日曜日に観た映画は「われ弱ければ 矢嶋楫子伝」。製作協力をちょっとだけしたので、チケットが送られてきていたのでした。監督の山田火砂子さんは90歳になろうという方。日本の歴史の中で記憶に残しておくべき人たちのことを取り上げた映画を何本も作ってこられましたが、特に女性の地位を高め、女性解放をめざす運動に力を尽くしてきた女性を描かれています。矢嶋楫子さんは、私の母校の初代校長で、もちろん名前は聞かされてきましたが、熊本という男尊女卑が当たり前の土地で、何度も人生をリセットし、女性解放のために闘った人だったのだ、と改めて知りました。どんなに苦しいことや辛いことがあっても、それは神様の意志が働いているのだ、というような言葉があって(正確ではないですけれど)、なんだか、最愛のパートナーを失ったばかりの私には、そういうことなのかもしれない、とふと思う、かつてよく聞いた懐かしい言葉でもありました。

茨木のり子 没後15年の集い~どこかに美しい人と人との力はないか~

 何も書かずに半年も経ってしまいました。さまざまな「通信」などで思っていること、感じていることをつづったりしていると、ブログの代用になっているのかも。でも、ほんのたまに、発信する場があるのだった、と気が付きます。
 今日は8月15日。敗戦記念日です。例年なら8月のこの時期はヨーロッパで気功の講習をやっていたので日本にいることはなかったのですが、二年続けて出かけられる状況ではなく、この日のことに思いを馳せています。格別に心が揺すぶられるのは、一週間前に開催された「茨木のり子 没後15年の集い~どこかに美しい人と人との力はないか」での感動がずっと静かに灯り続けているからです。主催した「茨木のり子の家を残したい会」は、茨木さんが48年暮らしていた東伏見のある西東京市に暮らす人たちが作った会。中学生時代からの親友が立ち上げの言い出しっぺだったこともあって、誘われるままに私も呼びかけ人になって参加させてもらっています。茨城のり子さんの詩はもちろん好きで、傍らには詩集が何冊もあるので、渡りに船、でもありました。のり子さんの詩や自分とのかかわりについて話し始めるときりがないので、これから少しずつ語っていこうと思いますが、今日は、その「集い」のことです。
 コロナ禍にあって、ほとんどの行事やイベントが中止や延期になる中、まさに「人と人との力」によって困難と思われた会を実現できたことがまず素晴らしい、奇跡のようでした。感染者数が増えたといっては脅し、あらゆることを止めて家にとどまることが強要され、それにみんなが従う、という空気をなんとも息苦しく感じているのですが、十分に気を付けた上で、人数も半分にしてこの会が行えたことが何よりも「快挙!」と思います。コロナの影響で、出演者の辞退があったり、ハプニングも続出で、実行委員の方々は休まる時もなかったと思います。身も心も揺さぶられる「上質」な会でした。何よりも私たちがとどまって平和への思いをあらたにしなくてはならない8月なのですからなおさら。プログラムは盛りだくさんで、茨木さんの生きた軌跡を会員が語る朗読「茨木のり子 巡りくる八月の旅」、前中榮子さんのソプラノ独唱、山川建夫さんによる詩の朗読、吉岡しげ美さんの弾き語り。もちろん、主役は茨木さんの詩ですが、その表現の方法がさまざまで、珠玉のようでした。私がとりわけ感動したのが、山川さんの朗読「りゅうりぇんれんの物語」です。30分以上、本を一冊まるごと読むような迫力でした。「長くて退屈だったでしょう?」とおっしゃいましたが、全然! 手に汗握って耳を傾けていました。あっという間。実は全然知らなかったのです、この物語のことは。1944年9月に中国の山東省から北海道の炭鉱に強制連行され、日本が敗戦を受け入れる一か月前に仲間たちと一緒に脱走を企て、どこに自分がいるのかもわからずに、山々をつたって14年間逃げ続けたということです。見つかったのが1958年で、私だってその時は10歳だったはず。大変な事件だったと思うのに全く知りませんでした。横井さんや小野田さんがジャングルから生還したというニュースはものすごく鮮明なのに。日本人が見つかったのと、中国の人が見つかったのとは、ニュースの重さもちがったのでしょうか。彼が見つかった時の総理大臣は、戦時中の商工大臣で戦犯だった岸信介。全く戦争の責任を取ることもなかったから、もちろんお詫び一つしなかったことでしょう。りゅうりぇんれんはその後、故郷に戻り、14年ぶりで妻と再会し、強制連行された時に妻のお腹にいて今では14歳になった子どもに初めて会うのです。こんなことがあったのか! という驚き、ショック。知らなかったことに対する申し訳ない気持ち・・・。
 りゅうりぇんれんの物語を聴いた後だから、「敗戦記念日」がことさらに意味を持って迫ります。茨木のり子さんが1961年にいち早くこのことを詩にしたのは、彼女の軍国少女として経験してきた戦争に対する思いがあってのことでしょう。日本が中国に対して何をしてきたのか、ひとりの人としての責任の取り方であったのかもしれません。茨木のり子さんは最愛のお連れ合いを亡くされてから、韓国語を学び始め、ついには韓国の詩人たちの詩を訳す、という大きなお仕事もなさるのですけれど、「なぜ韓国語をやるのか」と誰からも問われ、うまく答えられないから「隣の国のことばですから」と答えることにしたと。中国も韓国も隣の国、一番仲良くすべき国。日本のルーツがある国。なのに、日本人は隣人のことを軽んじ、ヘイトの対象にまでしています。となりの国のことばを学び、となりの人と付き合うこと。この日に一番考えなくてはならないことを茨木のり子さんが教えてくれたと思います。
 会のことはまだまだ書きたいのですが、もう一つ。朗読「巡りくる八月の旅」で圧巻だったのは、保谷市(現在は西東京市ですが)の「憲法擁護・非核都市の宣言」制定の場面。宣言が発表されたのは1982年10月1日でしたが、当時の保谷市長だった都丸哲也さんが「生」で出演されたのです。4月に100歳になったという都丸さんは、足取りも言葉もしっかりしていらして、制定するにあたって、保谷市在住だった茨木のり子さんを訪ねて相談されたことを話してくださいました。そうしてできたのがこういう宣言文です。
「憲法擁護・非核都市の宣言   
 みどりまち  ほっとする保谷に私たちのくらし
 木や鳥や虫たちとともに 日々のいとなみ 静かなあけくれ 平和をねがう すべての国のひとびととともに 守りぬこうこのなんでもないしあわせ
 新たに誓う 一緒に育てるこの地方自治 そっくり子供たちに手わたすことを
 この市民の声を 憲法擁護・非核都市保谷の 宣言とする。」
都丸さんも一緒に読まれ、「読み返してみて、茨木さんの気根、思いがまとめられていると思いました。日々のくらしの中に憲法を守っていこうという思いが。」と語られました。
 戦争と対極にある、日々の平和なくらしをやさしい言葉でつづったこの宣言は、今日の敗戦記念日にとてもふさわしいもの、と思えます。
 
 コロナ禍の中での茨木のり子さんの存在感は圧倒的です。世の中が、ひとの言うこと、情報に右往左往し、自分で考え、感じるちからを失ってきているような今、「倚りかからず」、「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と、うたった詩人のことばに圧倒され、ふっと気を取り直します。
 この会で分けてもらったたくさんの宝物、記憶はしばらく私を元気にしてくれそうです。茨木のり子さんの詩がそうであるように。
 

こいのち通信 1月号より

年が改まったら、気持ちも改めて、長くサボっていたブログを書く、と言っておきながら、またサボっています。言い訳をすれば、別のさまざまな通信を作ると、”書いた!”という気になってしまう、ということです。
 なので、先日出したばかりの「こいのち通信}(世田谷こどもいのちのネットワーク通信)の一部を、コピペさせていただく、というズルをします。

「こいのち通信」1月号
コロナをそのまま持ち越して、年が明けました。おめでとうございます、も言う気になれませんでしたね。新年早々、年末年始のGo To Travel, Go To Eatのキャンペーンのせいで、感染者数が増大し、遅れ遅れの緊急事態宣言。外食せよ、と言ったばかりなのに、出かけるな、家で食べろ、三人以上は集まるな、店は8時に閉めろ、などのお達し。挙句の果てに、違反をした店には罰則を課すことが決定され・・・。いったい何を考えているんだろう、と呆れを飛び越して、情けないことこの上ないですね。国会での論議(になっていないけれど)を聞いていても、まったく答弁になっていません。事情が刻々と変化しているのに、オリンピックを「人類がコロナに打ち勝った証として予定どおり開催する」と壊れたテープレコーダーのように繰り返すのみ。福島はアンダー・コントロールどころではないのに・・・。補正予算に、コロナ後のGo To Travel, Go To Eatに何兆円も当てるというのも、何の反省もないですね。生活の手段を奪われた人たちを救済するのが先決だろうに・・・。  新年早そう、グチばかりでごめんなさい。どうぞ今年もよろしくお願いいたします。せめて通信でつながれていることを喜びたいと思います。
 1月が終わろうとしている時に、1月号をギリギリで出すことにします。新年のイベントも中止、ボロ市もなく、本当に寂しい限りでした。それでも一ヶ月過ぎてみると、けっこういろんなことがありました。1月というと、私はやっぱり「1.17」なのです。震災の翌年から世田谷でずっと続けてきた「神戸をわすれない」という名の、神戸のことを映画で観て神戸に学ぼう、とする会も、34回目となりました。昨年の25周年に、「野田北部・鷹取の人びと」を作ってきた青池憲司監督が、そろそろ潮時、みたいな感じだったし、コロナ禍もあるし、今年はどうしようと考えあぐねていたのですが、やっぱり忘れないのだ、と思い直して、1月23日に開催しました。いつもなら「こいのち通信」に入れるチラシも作らず、区からの後援名義も取らず、プレスにも連絡せず、呼びかけは「神戸をわすれない通信」(そんなものも作っているのです)のみ、というごく控えめな準備で臨みました。非常事態で、区の施設が8時以降は強制的にキャンセルとなってしまう事態で、予定の映画も終わりまで見る時間をとれず、おまけに寒い雨の日でしたが、17人が集いました。 なんとなく、年に一度はこの場で会おう、と約束しているような雰囲気の会なので、いつもの顔、やっぱり神戸をわすれない、まだまだたくさん学ぶことはある、と思いを共有する方々に会えたことがなによりでした。 震災から5年の日々を綴った156分の「再生の日々を生きる」をじっくり鑑賞する予定でしたが、1時間15分くらい観たところで打ち切り!この先、まちづくりはどうなるのかとの期待がつのる中で残念ながら終会となりました。全編を観る機会を再度持ちたいと思いますので、その時はぜひ!この映画では、まちづくりを住民、専門家、行政が一緒になって真摯に討論する中から、意思決定をしていく、という、今の時代に失われつつある民主主義の原点が描かれていて、今だからこそ必見!と思えます。コミュニティは黙っていては出来ないということを教えてくれます。
 数日前に、素晴らしい映画を試写会で観たので、そのことにも触れたくなりました。「きみが死んだあとで」(代島治彦監督)。1967年10月8日、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとする学生と機動隊がぶつかったいわゆる羽田闘争で殺された、当時18歳の山﨑博昭さんが「きみ」です。山﨑さんと私は同い年。代島監督は10年年下。「もしもぼくが「団塊の世代」に生まれたとしたら、第二次世界大戦の直後1947年から49年の間に生まれたとしたら どんな人生を選んだとしたら どんな青春を選んだだろうか もしもぼくが1967年10月8日に羽田/弁天橋で死んだ18歳の若者の友だちだったとしたら どんな青春を歩んだだろうか」と問いかけます。200分、息を殺して見続けました。会場にいらした代島監督には思わず「ありがとうございました!」と言ってしまいました。何よりも「言葉」が生きている、言葉のちからを感じます。そんな時代だったのだなあ、みんな、理論も実践も、ちゃんと言葉で学び、言葉を使っていたように思えます。それは、今も糧になっています。50年以上経って、山﨑博昭さんと高校、大学で友人、同志だった人たちが語る言葉が、私が生きていた時代と完全にオーバーラップし、心に響きます。4月からユーロスペースで上映の予定ですので、ぜひ、その時代を生きた同世代の人、そしてやっぱり若い人たちに観て欲しいです。              

婚外子差別事件の解決を~世田谷区役所での窓口対応から考える
 1月15日世田谷区役所内で、地域行政部長、住民記録・戸籍課長と、「なくそう戸籍と婚外子差別交流会」との話し合いが行われました。参加者は交流会のメンバー、伊達さん、桜井純子区議、私(星野)も一区民として同席しました。事前に担当者に提出された趣旨は以下の通りです。
 『昨年の第四回定例区議会で「婚外子差別撤廃のための戸籍法改正を国に求める意見書提出に関する請願」が趣旨採択され、区議会議長名で国に要望書が提出されました。また、2018年から昨年まで3年連続で、全国連合戸籍住民基本台帳事務協議会総会において、「出生届の摘出子・摘出でない子の記載欄の廃止、戸籍の実父母及び養父母との続柄欄の廃止」を国に要望する決議がされております。これを受け、世田谷区の行政におかれましても、同内容を本年の全連でも決議いただくよう、東京協議会(東京戸籍住民基本台帳事務協議会)及び東京都連協議会(東京都連戸籍住民基本台帳事務協議会)にご提案いただくようお願いいたします。』
 伊達さんの娘さんが戸籍謄本の交付申請のために出張所窓口に行き、母親を筆頭者として申請書を出したところ、職員が「お母さんが筆頭者のわけがない」、さらに「父親の名前を書いて」と言った、婚外子を差別した事件から4年が経ちました。その経過や問題点は、伊達さんから寄せられた文章や、交流会の通信、みなさんにもお勧めしている「世田谷区窓口での 婚外子差別から考える」(2019.3.21集会記録)により、また昨年7月に世田谷で行われた集会に参加しながら把握していたつもりですが、はじめて区の担当者との話し合いの場に居合わせ、「なぜ、4年も経ってまだまだ振り出し地点にいるのか」という驚きを禁じえませんでした。なぜ、そんなに戸籍の内容確認に手間取らなくてはならないのでしょうか。 「できないだろう」が前提になっているように思えて仕方がありません。昨年3月に桜井区議が質問し、区として差別対応があったことを認める副区長の発言を引き出し、また、法務省の月間「戸籍」に「担当者が戸籍情報を見ながら質問をしていればこのようなことにならなかったかもしれないね」との一職員の言葉が載るなど、窓口での不適切な対応は明らかなのに、なぜ事前に戸籍情報を見て本人確認をする、というのがかくも難しいことなのか・・。話を聞いていても、首をかしげてしまうことばかり。二言目には、「プライバシー、情報漏洩の恐れ」が金科玉条のように語られます。戸籍の多い世田谷で、どの戸籍を発行すればいいのか、同姓同名があり得る・・・、などと、ほぼあり得ないことを持ち出してくるのは、事前に戸籍情報を確認しながら質問をするということはできない、というかたくなな区の拒絶の姿勢の表れではないでしょうか。事前確認が難しいことの理由の一つに、すべての出張所の区民窓口に端末を置くスペースがないことが挙げられましたが、そんなの今の時代にどうにでもなるでしょう、どうにかしなくてはいけない、と思いますけどね。本人確認を簡単にするために、マイナンバーカードを活用してほしい、などと、こちらが訊きもしないことがとうとうと語られたりするのにも、そんなのこっちの勝手でしょう、と思ってしまう。なにがなんでも拒む姿勢を見てしまいます。意地があるのでしょうか。法務省も「事前の本人確認を。訊いてほしくないことには答えないでいい」と月間『戸籍』で配慮しているのです。伊達さんも「事前に見るに優る方法はなかった。差別の問題は個別であり、問題が起きる可能性があることを考えてほしい」と訴えました。事前の情報がなく、窓口で訊かれれば「ないんです」と答えざるを得ません。どうも役所というのは、「標準家族」を前提として対応しているように思えます。現実にはいろんな家族の形態があります。シングルマザーは増え、かつては「欠陥家族」とされていたこともある、「規格外」の家族が一般的になりつつあります。夫婦別姓を選ぶ自由も一般化されるでしょう。
 法務省の担当者は、「事前に戸籍を見てから質問することは問題なし。端末がなければ事前に送ってもらうのは問題なし」としています。法務省自体が、「傷つけてはいけない」ということを全国自治体に発信しています。この問題は、正しく「人権」の問題です。認知のない婚外子に父親の名前を訊いただけで人権上はアウト、なのです。その意味では、国の見解をしっかり守るべきだし、そういう「人権」についての研修を職員に徹底してほしいしと願います。以下の伊達さんからの当日の感想を聞くにつけ、これはなんとかしなくてはという気にさせられます。こいのちでも、ちゃんと取り組みたいですね。
 
              いろいろ告知板

★「もっと語ろう不登校」2月9日(土)リアルは人数制限ありです。               連絡先:3327-7142(ぼくんち)  ズームでの希望者は招待状送付希望のメールを佐藤由美子さんまで。  Yurinoki11313@gmail.com

★優れたドキュメンタリー映画を観る会より いち早くのお知らせ!です。
 3月6日(土)~3月10日(木)
  「れいわ一揆」(2019年/4時間8分 原一男監督
 3月11日(木)、12日(金)
  「福島は語る 完全版」2018年/5時間20分 土井敏邦監督
 下高井戸シネマで連日AM11:55~上映します。
○国会中継では、増える失業者、格差、貧困、贈賄、山積する問題、野党の議員からの質問に対し菅首相のなんの展望も施策もない、虚ろな答弁に対して野党議員が「今の政権では国民の命は救えないよ!!」と𠮟責するありさまでした。今回上映するドキュメンタリー映画「れいわ一揆」はそんな思いや怒りをぶつけた映画です。決して一つの党に偏ったプロパガンダ作品でなく、人間の自由と平等を尊重する民主主義を考える作品として観てほしいと、原一男監督が語っています。主人公である安富歩さんの何よりも子どものいのちを大切に考える国家であるべきというメッセージが心に響きます。
 そして「福島は語る 完全版」です。短縮版に収められなかった廃校になる双葉中学校の最後の卒業式や、原発で働く人々、除染現場のことや、10年経っても決してアンダー・コントロールなど出来ていないことが解ります、この作品を観て、これからも福島にエールを送り続けたいです。80歳の女性からこんなお便りをいただきました「福島県人は半ば諦めようとしている、ならば私たち他県の者が許さない。」と、正に同感です (飯田光代)
プロフィール

marzoh

Author:marzoh
はじめまして、星野弥生です。さまざまな教育や子どもに関する活動、スペイン語圏の国々と関わるNGO的な活動を通じて、人と人との糊付け役みたいになっています。そんな活動の報告やらお知らせをする場として、ブログなるものに挑戦してみることにします。

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