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阪神の大震災から25年の今日。今年も「神戸をわすれない」

新しい年、2020年が開けて、もう半月以上が経ってしまいました。世田谷では、15日、16日と、430年続いているボロ市で、私もその時は他の予定も入れずにわが家を提供して開かれている、世田谷チャイルドラインのお店にかかりっきりなので(スタッフの賄い、という役どころです)、終わって一息・・・、なのですが、1月17日は、わすれもしない阪神大震災の起こった日なので、これもまた気もそぞろな一日を過ごすことになります。
 2020年は、オリンピックの年ではなく、震災が起こって25年目、四半世紀が経った年です。震災が起こって一年目から、世田谷で「神戸をわすれない・せたがや」なるグループを立ち上げ、続けてきて24年が経ちます。長田区の「野田北部・鷹取地区」のまちと人びとの復興と再生のようすを定点から記録してきた、青池憲司監督の「人間のまち~野田北部・鷹取の人びと」に伴走しながら、世田谷で上映会するという活動を続けてきてから、もうこんなに時が経ったんだ、と驚きます。続けてきたら、25年経ったんだ、という驚き。
 今年は、例年のように1月ではなく、2月8日に33回目の「神戸をわすれない」を開催します。はじめの頃は、年に2~3本の記録映画が作られ、それに合わせて世田谷でも年に数回の会を催していたから、こんな回数になりました。やっぱり、25年前に、東京と同じような大都市、しかも、私の友人がたくさん住んでいる神戸で震災が起こったことの衝撃は計り知れないものでした。なぜ神戸?と思いました。たまたま神戸だったのです。東京で起こっても不思議はない。そういう想像力、そして共感を持ったからこそ、これまで、「まだ神戸?」と言われても、続けてきた会でした。何年経ったから、という周年行事的なことには関心がありませんが、とりわけ今年はオリンピック、と言われることに無性に腹が立つので、ならば、神戸の年と主張したい思いです。
 今日だけは、新聞もテレビも特集を組むのですけれど、ふだんそんなことはわすれてしまっていることの言い訳のようでもありますね。応援とか支援とか、たかが知れているのですけれど、長田区にある小さな和菓子屋さんから、年に何度か、イベントの折にお菓子を注文する、という「すずめの涙」のような気持ちを寄せています。長田神社前商店街にある、本当に小さなお店「きねやさん」は、25年経って、とても大変な状況なのですが、なんとか店を続けています。二年前には、頼みのご主人を急に亡くされ、和菓子のレシピもわからないまま、できる範囲で店を続けてきています。長田神社の宮司をもじった神社のおみくじ入りの「グージーまんじゅう」を、私はいつも注文していたのですが、ご主人から作り方を教わっていなかったと、「グージーどら焼き」に挑戦したママさん。形が不揃いで、あんこがはみ出したりしていましたが、羽根木公園での雑居まつりで売ったら、大評判でした。「きねや」の松田さんに、17日の今日、電話してみました。声は元気そうでしたが、沈んでいる様子でした。長田も人が戻ってこない、なので商店もたち行かない。住民とのつながりがあってこその小さなお店はどんどん潰れて、スーパーマーケットができる。そんな25年間、きねやさんが存続しているのが奇跡のようです。ここにいくと、お年寄りが和菓子を一つ買って、店先でお茶をのんでおしゃべりしていく、そんな光景が見られます。人と人とのつながり。ああ、続けてほしいなあ、そう思うだけが、私の小さな神戸支援なのかもしれません。
 25年経って、表面的には、もう神戸は何も問題ない、ということなのでしょう。でもそれぞれの地域、一人一人のことを考えたら、問題は山積み。それは、きねやのママのつぶやきを聞くだけで伝わってきます。日本という国は、地についた人びとの営み、くらしのことはどうでもよくて、国をあげてのオリンピックですべてをわすれさせようとしているかのようです。福島のことを考えたら、なにがオリンピックですか?と疑問に思うのが当たり前。「神戸をわすれない」と、ずっと言い続けてきたのも、わすれさせようという勢力に対して、「ちがうだろう」と突きつけたいからなのかなあ・・・。
 33回目になる「神戸をわすれない」は、現在制作中の「鷹取・野田北部のいま」を観つつ、25年を振り返り、きちんと明日につなげる、という会にしたいと思っています。2月8日、5時半より、世田谷ボランティアセンター(三軒茶屋)で行います。映画のあとは、青池憲司監督と、早稲田大学大学院の佐藤滋教授によるトーク。首都圏直下型地震が起こる可能性は大です。神戸で25年間に培われてきたことを、どうこれからに活かすのか、誰もが学ばなくてはならないことと思います。どうぞ集ってください。
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中村哲さんの無念さに私たちが応えるには

 あっという間に今年も幕を閉じる時期になってありましまいました。いろんなことがあった年でしたが、中村哲さんが撃たれて亡くなったというニュースに打ちひしがれています。あっていいはずがないことです。残念、無念でたまりません。もちろん一番無念だったのは、まだ20年は続ける、と決意していた中村さん自身だったでしょう。ふっと思い出して本棚の中から「医者、井戸を掘る」を取り出して表紙をめくると「星野弥生さんへ」とサインがありました。平成24年6月7日と書かれています。7年前、保坂展人さんとの対談もあった会で求めた本でした。例によって少し読んでからツンドクになっていた本、今頃になって引き込まれるように読んでいます。少しでも中村哲さんの側にいたい、そんな気持ちです。
 先週末、土日にあったいろいろな会でも必ず中村さんの話が出てきました。土曜日に、6月に続いて再び来日した(そう、その時は一週間、一緒に日本をどさ回りしていました)コスタリカのロベルト・サモラ弁護士の講演会があったのですが、その時に「安保法制違憲訴訟」について話をした弁護士の杉浦ひとみさんも中村さんの死を悼みました。日本は平和憲法を持っているからこそ、外国の人たちに信頼されてきました。武器を取らず、戦争はしない、と声高らかに9条で宣言されていることが何よりの安全保障のはずだったのです。戦闘の続く国にあっても中村さんが医療、そして農業用の井戸や水路の建設に丸腰で携わることができてきたのは、平和な国日本への信頼だったはずです。でも、4年前の9月19日に国会を取り巻く何万という人達の声をないがしろにして強行採決された「戦争法」施行以来、日本は軍隊を持つ「戦争ができる国」に事実上なってしまいました。中村さんがその犠牲になったのではないか、という悔しい思いがよぎりました。
 日曜日には「国際有機農業映画祭」が開かれました。午前中は去年も参加した等々力の大平さんのお宅の落ち葉掃きをしていたので、会場についたのは夕方になっていました。去年の映画祭で上映された「大平農園 401年目の四季」を、私が世田谷ボランティア協会で毎年企画・実行している「映画とワインの集い」でも上映したく、森信潤子監督、そして当主の大平美和子さんに会いに落ち葉掃きに参加してから、本当に400歳のけやきの木がそびえるお庭が大好きになりました。けやきに守られ、気持ちのいい一時でした。
 遅れて行った映画祭で、最後の二本を観たところで、中村哲さんを偲ぶ緊急特別企画として、ペシャワール会が制作し、映画祭でも過去に上映された「用水路が運ぶ恵みと平和(技術編)」が映し出されました。旱魃で砂漠と化した大地に、用水路を作り、豊かな緑の農地に変えた、という奇跡のような取り組みです。その工法が、江戸時代に福岡に築かれた朝倉の堰、三連の水車のやり方にヒントを得ているというのがなんとも素晴らしい。この映画を中村さんは多くの人に観てほしいと願っていたということです。
 映画の中で中村さんが語る言葉が沁みました。「人間は自然のあとから来たお客さんだから」「水を巡ってかつてあった争いが、水が得られればなくなる。人間らしい生活が回復されれば、地球のつながりができる。平和が保たれる」「技術、経済ではもう限界。自然に帰ることです」「武器を作ることと正反対のことをすれば、滅亡への道を避けられる」。 平和への道は、武器よりも食の保証であることがこんなにも見事に立証されている映画に本当に感動しました。
 中村さんは「医者、井戸を掘る」の「憂鬱の日本」と題する章で日本国憲法について語っています。「日本国憲法は世界に冠たるものである。それはもう昔ほどの精彩を放っていないかもしれぬ。だが国民が真剣にこれを遵守しようとしたことがあったろうか(…)『平和こそわが国是』という誇りは、自分の支えでもあった。ところが、日本全体が面妖な『西洋貴族』の群れと化すことによって、私は現地でも日本でも孤立感を覚え、内申忸怩たるものがあったのである。(…)平和憲法は世界の範たる理想である。これを敢えて壊つはタリバンに百倍する蛮行に他ならない。だが、これを単なる遺跡として守るだけであってもならぬ。それは日本国民を鼓舞する道義的力の源泉でなくてはならない。それが憲法というものであり、国家の礎である。祖先と先輩たちが、血と汗を流し、幾多の試行錯誤を経て獲得した成果を『古くさい非現実的な精神主義』と嘲笑し、日本の魂を売り渡してはならない。戦争以上の努力を傾けて平和を守れ、と言いたかったのである。」
 平和憲法の精神を実践し、武器ではなく、医療と農業によって人びとと大地の復興と再生を果たした中村さんの無念さに報いるために私たちがこころしなくてはならないのは、憲法に保障されている「平和」を守ること。武装することが国を守ることには決してならず、本当に国を守りたいと思ったら、9条の遵守を徹底して、武器によらない平和への道が一番の近道だ、そのことを真に教えてくれたのが中村さんの生き方だったと思います。

「地図から消される街」講演会のお知らせ など

 先日「こいのち通信」をコピペした中にも入っていたお知らせですが、朝日新聞記者の青木美希さんの講演会が明日(9月29日)にあります。タイトルの「地図から消される街」~3.11後の「言ってはならない真実」~」は、青木さんの本の題名です(講談社現代新書)。3.11以後、被災地を訪れ、被災者、県外避難者に話を聞き、激しい言葉ではなく、現実をそのままに語る青木さんの筆を通して、読む側には、あまりの理不尽さがひしひしと伝わってきます。除染は手抜きだらけで、フレコンバッグは積み上げられ、穴も開いているという現状を、「除染は完了したから帰還はOk」とはよくも言えるもの。子どもたちの健康、将来を心配して、敢えて避難をせざるを得なかった人たちに対して、帰らないのは非国民だと言わんばかりの対応。避難したものの、住宅、仕事の問題を抱え、子どもたちも大学をやめざるを得ない、という母親が自死に追い込まれる、という話は何度読んでも胸が締め付けられます。県外避難者に対する、住宅支援の打ち切りとは、なんという酷い仕打ちでしょうか。家も土地も仕事も家族すら、すべて奪われてしまった現実に目を向け、耳を傾けることなく、オリンピックへひた走るこの国に対する怒りを禁じえません。
 この夏、フランスとスイスでの気功講習会の折に、慣習となっている「福島の子どもたちの話」をする機会がありましたが、熱中症続出の酷暑の日本という気候条件に加え、福島がまだ復興からは程遠い状況にあることは、誰の目にも見ても、決してオリンピックを行える事態ではないことは明らかです。聖火が福島を起点とする、ということには誰もがビックリ。2020年の夏、日本に訪れることをボイコットしてほしい、と伝えました。ヨーロッパの国々で、少しでもそんな動きになったら、少しは一石を投じることになるでしょうか。オリンピックを行うためには、福島が安全でなくてはならないし、福島がもう帰還できる状態にあることを示したいがために、オリンピックを使うのではないか、とすら思えてきます。
 先日も、第四次(でしたっけ?)安倍内閣改造で就任したばかりの復興大臣が「自主避難者は担当外」と発言して問題になりました。どこまで無関心でいられるのか。明日は、実際に、家探しという切羽詰まった問題を抱えた避難者の方も見えます。本当に、現実を知っていただきたいです。青木さんを私に紹介してくれた保坂展人・世田谷区長も後半参加して、青木さんと対談することになっています。私たち区民がが福島の子どもたちのリフレッシュのために8年間続けてきている支援活動に対して、区の施設を提供してくれている世田谷なので、せめて、少しでも被災者、避難者に寄り添う体制が取れることを願っています。
 9月29日(日)1時半~4時半 宮坂区民センター大会議室に、どうぞご参集ください。

 このところ、青木美希さんの本をぜひ読んで!と事あるごとに勧めていますが、もう一冊、本の話。
 私がかれこれ5年くらいかけてなんとか形にした本が発刊しました。「ミニマムで学ぶことわざ」シリーズのスペイン語のものです(クレス出版)。私がことわざの本を書くなんて、誰も信じられないと思いますが、行きがかり上引受け、友人に助けられながらこぎつけました。一般的に言って、ことわざはなかなか興味深いものです。困ったり、辛くなったりした時に一言のことわざで、ああ、だれもそうなんだ、と気持ちが楽になったりします。100のスペインでよく使われることわざが、私たちの生活や人間関係のどこかを潤すことになったらいいなあ、と今は思っています。もし読んでみよう、と思われる方は、どこかで手に取ってみてくださいますよう。宣伝するのもおこがましいですが。

「世田谷こどもいのちのネットワーク通信」より。 青木美希さんの講演会にぜひ!

ここまで音信不通、となると、いったい何してるんだろう、生きているのか、と思われるかもしれないので(そこまでの関心はないか・・・)、言い訳のように書きます。夏はいつものように、ヨーロッパに行っていました。どこにいようと、書いたり、送れたりはするので、あまり言い訳になりませんが。日頃、いろんな「通信」を作っていると、それで事足れり、という感じになってしまうので、それが私にとってはブログのようでもあります。私が、今は日本にいて、これまで通りにバタバタとしていることの証に、先日出した、「こいのち通信」(世田谷こどもいのちのネットワーク通信)の文をコピーします。その後は、まだまだ書きたいことがあるので、なるべく間を空けずに、いろいろお伝えしたいと思います。ここに書かれている9月29日の、朝日新聞記者の青木美希さんの講演は、絶対にオススメ! 「地図から消される街」を読んで、青木さんに絶対に話をしてほしい、とずっと思っていました。世田谷で、福島の子どもたちとその家族に外遊びを楽しみ、少しは放射線の少ないところでストレス解消してほしい、と願って「ふくしまっこリフレッシュin世田谷」を実施している私たちにとって、こんなに頑張っている記者は、まるで同志だし、こういう「新聞記者」を心から応援したいと思います。以下、「こいのち通信」です。
 【「暑い!」が合言葉のようだった夏もそろそろ終わりでしょうか。7月に45℃にまで達し、カラカラで砂漠のようだったヨーロッパに一ヶ月近くいましたが、8月は適度に雨も降り(雷も稲妻もありましたがき)、朝晩は涼しく、あるいは寒く、日本からの「暑い!」の悲鳴に、申し訳ないような気持ちでした。みなさま、夏の暑さにも負けず、お元気でお過ごしでしたか? 
8月はスルーしたので、二ヶ月ぶりでの通信です。昨年の前川さんの講演会以降、「さまざまな学びの場」を追求してきたこいのちですが、今年度の企画第一弾として、7月17日に川崎で「フリースペースたまりば」を開設し、その後、公設民営の「フリースペースえん」の開設に携わったわれらが「にしやん」こと西野博之さんに、官(行政)との連携作業の経験など語っていただきました。全国区で活躍しているにしやんを予約するのは困難を極めますが、この日は西野さんとは教育ジャーナリストの時代からのダチでもある保坂区長も参加。久々のビッグな対談となりました。ニシヤン曰く「33年前から居場所づくりをやっています。保坂さんがカメラマンになって、筏での川下りを取材、なんていう時代からの付き合いです」「権利条約を作るために、二年間で200回の集会を開き、民と官がぶつかりあって、わかりあえた」という民・官のコラボの経験は重たく、ステキですね。学ばなくては。ニシヤンの言葉はすごく心に響き、たくさん書き記したいのですが。 「えんを作る時は、『ごろり』と昼寝できるところがほしい」「生きているだけでOK,こんな私でも大丈夫と思ったら生きていける」と伝え、「大丈夫のタネ」をまくことを続けてきているニシヤン、やっぱりすてきだなあ。
会の中では、2月に開設した、初の公設民営の「ほっとスクール希望丘」のスタッフである今井さん、同じ希望丘の複合施設の中にある、青少年交流センター「アップス」センター長の下村さんなどから、世田谷区のこどもや若者の新たな居場所の活動報告も受けることができました。23年前に、区内のさまざまな子どもに関わる場に携わるグループや個人が集まってできた「世田谷こどもいのちのネットワーク」が新たな形で生まれ変わるか!? という予感もします。そしてそのことが、第三期目に入り、「教育」や「子ども・若者」に焦点を当てた改革に取り組もうという保坂区政の中での「参加と協働」の実現に寄与できれば、と願っています。この講演会を企画した張本人のイナセンの個人レポートをお読みください。テープ起こしをして、せっかくのいい対談を残さなきゃと思っている私です。
 さて、9月の早い時期に通信を出さなきゃ、と思ったのは、またまたステキな講演会(9月29日)のお知らせをしたいからです。昨年の前川喜平さんの講演会の後、懇親会の場で床に座り込みながら、必死でパソコンを叩いていたのが朝日新聞社、社会部で当時は世田谷担当だった青木美希記者でした。翌朝の朝刊に間に合うようにと。その時に渡されたのが「地図から消される街」(講談社現代新書)。3.11以降、とことん手足を使って現地に赴き、たくさんの人から話を聴いて書き上げた渾身の著書です。新聞協会賞、ジャーナリスト協会賞なども受賞したこの本は、声高に原発反対!と言っているわけではないのに、被災地に生きる人びとのかき消されていく苦悩、叫びを通じて、読む側に迫ります。こんなこと許されていいわけはない。そして原発事故から派生するあらゆること何も解決されていないのに、帰還が叫ばれ、オリンピックは福島から、などとすべてがなかったことにされ、忘れ去られようとしていることに対する言いようのない憤りがわいてきます。この本を手にした時から、青木さんにはぜひ「こいのち」や「福島の子どもたちとともに・世田谷の会」で話をしてほしいなあ、と思っていたのですが、今回実現されることになりました! 青木さんには、昨年12月にも「ふくしまっこリフレッシュ」の活動を羽根木プレーパークで取材していただきました。8月27日の朝日新聞の夕刊には青木さんの書いた記事が大きく載りました。「原発避難 夫は太陽光に挑んだ」というタイトルです。福島第一原発がある双葉町で生まれ育ち、第一原発で作業員として働いてきた遠藤浩幸さんが、鹿児島に避難して会社を立ち上げ、太陽光発電の設備を造り始めましたが、完成間近に50歳で急死され、そのおもいを家族が継ぐことになったということが書かれています。淡々と事実が描かれる中で、哀しみ、やるせない気持ちがふつふつとわいてきます。すぐに青木さんにメールを入れたら、「載るまでに半年かかりました」と返事がありました。とてもいい記事です。ぜひ読んでください。頑張っている記者は、とことん応援したくなります。保坂さんも来られることになりました。青木さんを紹介してくれたのは彼だったので、とても嬉しいことです。9月29日の午後、ぜひとも宮坂区民センターにいらしてください。
 7月24日、開設7年目を迎えたせたがやホッと子どもサポート(せたホッと)の活動報告会がありました。こいのち事務局会のメンバーも何人か参加しました。第二部の実践報告でサポート委員の一人である弁護士の平尾さんがされた「いじめ予防授業」がとても印象深く、画期的な試みだと思ったので、ぜひこいのちでもやっていただきたいと、連絡を取ったところ、11月24日(日)夜ならOKと快諾していただきました。詳しくは次の通信でご連絡しますが、どうぞ予定に入れておいてください。こいのちもこのところなかなか積極的でしょう? と自画自賛。動けば、会員も増えます。そしてまた動けます。このところ通信の発送作業にお手伝いに来てくださる方もあり、発送作業が交流の場にもなります。本当にどよーんと停滞しきったように思える世の中。少なくとも自分たちの周辺、自分たちの住むところから、いい空気を取り入れていきたいものです。
 もう一つ報告です。7月29日に梅ヶ丘パークホールで、伊勢真一監督の映画「えんとこの歌」の世田谷での上映会がありました。重度の脳性マヒの障害を持った遠藤滋さんは、梅ヶ丘の光明養護学校で育ち、その後、東京都で初めて、障害者として教員に採用され、母校の光明養護学校で教鞭を取りました。寝たきりになり、24時間の介護体制で暮らす遠藤さんが住むのも、学校の並びのマンション。ゆかりの梅ヶ丘での上映会は、満員の大盛況でした。飯田光代さんが主宰する「優れたドキュメンタリー映画を観る会」は、こどもいのちのネットワークとは切っても切れない縁。介護者たちとの日々が遠藤さんの短歌に織り込まれていきます。相模原の事件があって、どうしても伊勢さんは遠藤さんをもう一度撮りたくなり、この映画ができました。相模原事件の裁判が始まる来年の1月に合わせて下高井戸シネマでも公開される予定です。ぜひ観ていただきたい映画です。(世田谷ボランティア協会の情報誌「セボネ」の9月号に私がレポートしていますのでぜひ読んでね) 
 ついでにもう一つ。9月3日、北沢タウンホールでの渡辺義治さん、横井量子さんご夫妻による舞台「地獄のDECEMBER―哀しみの南京― (南京大虐殺 あれから82年)を観てきました。渡辺さんの父親は大陸で中国人を殺し、日本人を残留孤児として残したまま帰国し、戦後を生きました。また横井さんの父親は兵士の日用雑貨を納める仕事により戦争に加担し、生活は潤います。そんな家族の犯した罪を購おうとお二人はこの芝居に取り組みます。辛い場面がいっぱいですが、ここに目を据えないと先に進めない気がします。私達の親は多くを語らなかったけれど、やはり同じ加害者です。どんなにひどいことをしてきたのか、考えるだけでグサッときます。辺見庸の「イクミナ(1937)」もそういう視点で書かれ、現在を厳しく問います。何よりも、戦争をしかけ、無謀な戦争に「天皇の名」によって国民をかり出した人たちの過去が不問に付され、戦後、何事もなかったように、政治の中枢に居座ることができてきた、というのもこの国の不思議さでしょう。責任を問わず、忘れさせてしまう、という常套手段・・・。広い会場に、観客がとても少なく、残念でした。せっかくの世田谷での公演なのに、宣伝不足で申し訳ない気持ちでした。次にやれる機会があったら、なんとかできると思います。みなさんも、どこかで公演の予定など目にされましたら、ぜひ観に行ってください。メールやHPのツールを全く使わない方々なので、情報をゲットしたら、この通信でお知らせします。】    

「作兵衛さんと日本を掘る」を観ました。23日のトークへのお誘い。

 鳴かず飛ばずのブログで、もう誰も見ることはないだろうな、と思いつつ・・・。日々、いろんな「通信」をつくることが多いので、どうしても「緊急性」が優先となり、自分としては、ブログで発信しているようなつもりにはなっています。そういう通信をブログにアップすればいいのだ、と思いながら、やっていません。
 言い訳はともかく、ブログが一つの「伝える」手段になっているのなら、やっぱり綴ってみよう、と思う映画のことです。熊谷博子監督の「作兵衛さんと日本を掘る」を、ポレポレ東中野に観に行きました。「三池~終わらない炭鉱(やま)の物語」を観て、私たちが子どもの頃、遠いところにあっても、「炭鉱」や「ボタ山」は当たり前のようにあったのに(教室には石炭ストーブがありましたから)、それがいつの間にか消えてしまったことに、さほど深い背景を考えることもなかったなあ、と気が付かされました。熊谷さんの「むかし原発、いま炭鉱」もすぐに買いました。
 熊谷さんから連絡を頂いていたし、今日のトークのお相手は鎌田慧さん、と知って、行かなきゃ、と。炭鉱夫だった作兵衛さんが、60代後半から、「子孫に残さなくては」と一日二枚のペースで書いた2000枚にもなる、炭鉱で働く人たちの生活、労働を描いた絵は、ユネスコの世界記憶遺産に登録されています。「マグナ・カルタ」やベートーベンの自筆楽譜と肩を並べる世界遺産なのです。作兵衛さんの絵を全体のモチーフにした、それらの絵に関わる方々へのインタビューで語られる炭鉱の歴史は、決して過去のものとは思えず、迫ってきます。
 作兵衛さんの絵に描かれる炭鉱で働く女性は、観音様のよう(上野英信さんは、聖母像と言われたそうですが)だし、男はかっこいい。鎌田さんは、「あれはロマンですね。実際は、粉塵で真っ黒ですから」と語っていましたが、私は「美しいなあ」とそのまま見惚れていました。映画の終わりにある作兵衛さんの晩年のことば「けっきょく、変わったのは、ほんの表面だけであって、底のほうは少しもかわらなかったのではないでしょうか。日本の炭鉱はそのまま日本という国の縮図のように思われて、胸がいっぱいになります」は、ズバリ突きつけられたような思いがします。
 日本のエネルギーの大半を賄ってきた炭鉱と、原発が重なります。炭鉱が次々と閉鎖され、経済が立ち行かなくなったところに、原発が誘致されます。常磐炭鉱があった福島に原発が立てられていく、というのが一番わかりやすい例ですが、九州の玄海原発もそうです。原発を電力源とするために、炭鉱をなくしていった、とも言えるでしょう。原発の問題は、炭鉱の問題と深く関わっています。炭鉱も原発も、すべて国策に翻弄されてきたということ。
 前回の東京オリンピックの年である1964年は、上野英信さんが筑豊文庫を作った年であり、作兵衛さんが絵を書き始めた年だそうです。福島は何も問題がない、日本はすべてオッケーとアピールするような2020年のオリンピック。そんなの認めないよ、と事あるごとに言い続けていますが、だからといって何ができるわけでもありません。でも言い続けたい。オリンピックなんかやっている場合か、と。
 熊谷さんと鎌田さんのトークで、「最近、ひどいよねえ」と鎌田さん、つぶやいていました。「どうする?」と。「現代の女鉱夫としては、事実を掘り出して運び、未来にむけて坑道をつくる。みんなが女鉱夫になりましょう。鎌田さんは鉱夫頭を。」という熊谷さんに、鎌田さんも「掘っていくと、トンネルの先に新しい光が見えてくる。それを信じていかないと生きていけない」と語っていました。
 一人ひとりが鉱夫になって、深いところを掘っていかなくては、何も見えなくなってしまうのが今の時代なのかもしれません。
 たくさんのことを考えさせられる映画でした。それにしても作兵衛さんの描く女性の表情に元気づけられます。ぜひ、観てくださいね。ポレポレ東中野で、延長して上映されるということです。

 お知らせ一つ。6月23日、23年前から世田谷で活動している「世田谷こどもいのちのネットワーク」総会の記念イベントとして、「子どもも親も、先生も幸せになる学校・教育とは? 」と題する、トークがあります。登場するのは、「仮説実験授業」の「出前教師」平林浩先生、そして世田谷区長の保坂展人さんです。30年近く平林先生の追っかけ?をし、「日曜科学クラブ」を月に一度世田谷で行ってきていますが(今では、息子、孫娘、共々三世代にわたっての追っかけです)、世田谷で学校を変えていく、と意気込む、区政三期目が始まったばかりの保坂さんと、子どもも親も教師も幸せになれる教育ってなんだろう、というお題で話をしていただこうと思っています。6月23日5時から、世田谷ボランティアセンター(三軒茶屋)で。
プロフィール

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Author:marzoh
はじめまして、星野弥生です。さまざまな教育や子どもに関する活動、スペイン語圏の国々と関わるNGO的な活動を通じて、人と人との糊付け役みたいになっています。そんな活動の報告やらお知らせをする場として、ブログなるものに挑戦してみることにします。

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