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「ベンポスタ子ども共和国」映画上映とトーク  (12月9日)

「ベンポスタ」が忘れ去られ、死語になってしまうのでは、とそれだけは阻止したいと、なんだかバカみたいに「ベンポスタ応援団」を勝手に任じている私ですが、ここにきて、ベンポスタに学び、風化させない、と背中を押してくれる「同志」が、「ベンポスタ子ども共和国」の映画を観て、「こども参加」について語ろうという会を開いてくれるというのは、本当にうれしいことです。
12月9日(土)、世田谷の宮坂区民センターでの「子ども参加研究会」による、「ベンポスタ子ども共和国を観ながら、星野弥生さんが語る という会がそれです。
 「ベンポスタ」に未だに関心を持ってくれている人がいるなんて! 1989年から映画の翻訳をきっかけに「ベンポスタ」にハマり、「駐日大使」に任命されるという、まるで、「冗談からコマ」みたいな関わりですが、今でも「ベンポスタ、見ました!サーカス、観に行きました!」という人と出会うと、もうそれだけでお友達、という感じになります。
 喜多明人さんとは、子どもの電話「チャイルドライン」支援センターで理事を一緒にやってたりしていましたが、「子どもの権利条約総合研究所」を立ち上げたお一人で、「子どもの権利条約」なら、まず喜多さんと私は思っています。毎年、権利条約のフォーラムが開催されていた頃、「ベンポスタ子ども共和国」の上映会、というのもいいんじゃない? と売り込んだこともありました。 その喜多さんが、コロナ前からだから、もう4年くらい前でしょうか。子どもの権利という視点でベンポスタをとりあげたい、と提案してくれたのです
 「ベンポスタ」を創ったシルバ神父がいろいろな機会に話していたのは、「ベンポスタは子どもの権利条約を先取りしていた」ということ。「建国」されたのが1956年なので、権利条約を30年くらいさかのぼることになります。子どもたちが共同体を作り、「政府」を作って「自治」を行う、というのは、究極の「自分のことは自分で決める」権利をもつということでしょう。ベンポスタの「生きる歓び」を伝えるサーカスの最後を飾る人間ピラミッドを作りながら、子どもたちはこう歌います。「強い者は下に、弱いものは上に、子どもはてっぺんに!」子どもが何よりも一番上におかれる、というのがベンポスタの思想であり、子どもの権利条約の柱です。今回、「子ども参加」という視点で、喜多さんたちがこの企画を立ててくれたことは、まさに「わが意を得たり」の感があります。とくに、経済的な自立・自治の活動を、世界の子ども参加の歴史にはなかったこと、と評価していただいたのも、改めて、ああ、そうなのか、と気づかされます。ベンポスタには「銀行」があって、「コロナ」というベンポスタ内での通貨(地域通貨のはしりですね)が流通の手段です。子どもたちは共同体の一員として、「勉強し」「労働する」ことに対して支払われ、そこから「食」「住」に必要な額を払い、「教育」を受けることに対しては教師に支払う、という考え方もユニーク 。
 残念ながら、今のベンポスタはかつてのように機能しているところではないのですが、それでもその考え方がこういう形で伝えられ、子どもが「経済」の仕組みを理解し、公正な経済活動を実践できるようになる、というのはとても素晴らしいことですね。
 12月9日に向けての、喜多さんからのメッセージを紹介します。
 「ベンポスタ共和国については知る人も少なくなりました。これを風化させることは、子ども参加研究にとっても大きな損失です。なんとか若者たちにつなげられないか、と思います。  喜多明人」
 1990年に製作されたドキュメンタリー映画「ベンポスタこども共和国」(1時間40分)を観ていただきたいです。もう30年以上前の映画ですけれど、今の世に問いかけている映画でもあると思っています。なによりも、最後の15分間の、サーカスの場面、とりわけ、子どもたちがところせましと飛び跳ねながら作る「人間ピラミッド」は、涙が出るほど感動。ぜひ来てください!

  第六回 子ども参加研究会 「ベンポスタ子ども共和国-ドキュメンタリー映画『ベンポスタこども共和国』を観ながら、星野弥生さん(翻訳家)が語るー
12月9日(土) 午後三時半~6時半  会場 世田谷区立宮坂区民センター・大会議室 (東急世田谷線「宮の坂駅」すぐ、小田急線豪徳寺駅から徒歩10分)
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久し振りのブログです。東京夫婦善哉のことなど。   

さまざまな「通信」やら、メールやらに追われて、ブログの存在などまったく忘れていたのでしたが・・・。今、私と亡き夫と亡きネコのドキュメンタリー映画「東京夫婦善哉」が上映されている渋谷のユーロスペースで、毎日たくさんの友人、知り合いと出会っているのですが、今日お会いしたお一人が、「ブログ見てます」とおっしゃっていて、ハタと我に返った次第。ツイッターもフェースブックもやらない私にとって、インターネットでもなんとなくアナログっぽいブログは、さほど抵抗もなかったので始めたのですが、使わなくては意味ないですね。私のブログなんて、誰も興味ないだろうな、と勝手に思ってもいますが、そうか、一人でも二人でも、なんか共感してくださる方がいるということはなんとステキなことなんだろう、と思いなおしました。
そう思って、恐る恐る最近のブログを見返してみると、三か月も前でした。そう、坂本龍一さんの旅立ちがあまりにも衝撃だったのでつづったものでした。そうしたら、投稿の欄に、なんと「久しぶりです」という声があり、だれ?と見ると、それも天野冬話ちゃんでした。ええっ! トワちゃん! ベンポスタっ子の天野耕太と季子さんの娘で、生まれた時から「ベンポスタっ子」と私は勝手にレッテル貼っていたトワちゃん!、越後の十日町で生まれて育って・・・今は東京。中学二年になったって。貴女のことは、生まれる前から知ってるよ、と得意になりたくもなるくらいの子です。私とそんなに触れ合う機会はなかったのに、読んでくれてるんだ、と思ったら、俄然これから書かなきゃ、という気持ちになりました。トワちゃん、ありがとう! 
で、話は映画なのですが、ユーロスペースでの上映は、7月7日、七夕で終わりです。二週間、期待ほどに人が入らなかった、というので打ち切りですが、21日からは、場所を変え、吉祥寺のアップリンクで上映されます。私はこれまで培ってきた交友関係をほぼ100%駆使して、前売りチケット販売にこの数カ月を費やしました。そのおかげで、連日、自分史を振り返るような生きて来た時々に関わってきた方々、夫の友人たち・・・本当にいろいろな人たちと再会、あるいは新たに出会い、人とのつながりを紡ぎなおしている、と実感しています。なんて豊かな人つながりなんでしょう。これこそが私の財産、と再認識しています。
「東京夫婦善哉に関していえば、私たちは、素材だけを、それもまったくそのまんまの、なんの肥料も添加物もない素材だけを差し出しただけなのに、観る人がそこにとても共感、感動を覚えるような美味しい「料理」にしてくれた、45年来の友人である、プロデューサー、監督に感謝するしかありません。映画って、投げかけたボールがどうかえってくるか、キャッチボールのようなものです。
映画を観て戻ってくれば、映っていた夫もネコのチャロもいない家にひとり・・・。でも、ここに二人は確かにいてくれます。だから私も日々生きていける。この場を、残された人たちで楽しく活かしていきたい、とますます思っています。
遅きに失す、という感じですが、7日に間に合ったら、駆けつけてください。10時45分、無理ですよね。明日は渋谷での最後の舞台挨拶、です。次は、吉祥寺で!

坂本龍一さんの旅立ちに思う

 坂本龍一さんが旅立たれたと知って、打ちひしがれています。戦争があり、平和も危うくなっている今、坂本さんを失ってしまい、どうしましょう、とオロオロしています。でも、病があっても、やるべきことはやり、言うべきことは伝えた、そうやって生き切った人生だったと、無理矢理に納得させています。テレビはあってもふだんは見ない私ですが、NHKの追悼番組は見ました。からだも大変な時期、日記を書くように作られたという12の作品が素晴らしい。「ピアノは下手だから」とおっしゃいますが、水や風などの自然とそのまま溶け合っている、坂本さんの「生」そのものです。ご自分を癒すものでもあった、とおっしゃってました。私もきいて心がふるえました。最後のアルバム「12」のジャケットを手掛けられた李禹煥さんが、朝日新聞へのコメントで「最初は宇宙から音の束が流れ出る感じなのに、途中からピアノの音そのものが寂寞とした空間に響き、坂本さん自身へのレクイエムのように聞こえ、どきっとしました。」と書かれていました。自身へのレクイエムでこの世での生を締めくくられたんですね。
娘が通っていた新宿高校の広報を担当していたことがあったのですが、坂本龍一さんに後輩へのメッセージを寄せてくださいますか?とお願いし、快く引き受けていただきました。その広報紙はどこかにあるはずですが、見つからない・・・。後輩へのあたたかい言葉でした。
坂本さんの「非戦」の思想を、ぜひとも後輩たちには受け継いでほしいです。インタビューで語られていました。「子どもや大切な人や美しい山河を守りたいからこそ、僕は〈非戦〉であることが有効だと思うんです。〈非戦)というのは、決して座して撃たれるのを待つ、ということとは全然違うよ。」と。

 坂本さんの旅立ちは、3年前の夫の旅立ちに重なります。3月に三か月の余命宣告を受け、病院での医療を受けることなく、自分でやりたいと思う方法で医師の言葉通りの三か月を終えました。彼のの生きざま、人生の終わらせかたを40年来の私たちの友人がドキュメンタリー映画にしてくれました。彼の映画になる、と私も思っていましたが、撮影開始から3か月も経たないうちに主役が不在となり、その後は彼の、あまりふつうではなかった人生を織りなす役どころとなった多くの友人や家族たちへの取材、残された私とネコのチャロを中心としたくらしのさまざまな場面などがその不在を補いました。長い編集の期間を通じ、出来上がった映画は、「夫婦の愛情物語」になっていました。昨年、彼の三回忌である5月28日、そして9月28日には下北沢の北沢タウンホールで、映画のお披露目を行い、延べ800人以上の方に観ていただきました。その顛末に関しては、滞りがちなブログに少し記させていただきましたので、よかったら読んでください。その映画が、6月に渋谷のユーロスペースで公開されることになりました。まだ、上映期間は確定していません。タイトルは二転三転して、「世田谷」ではなく、「東京夫婦善哉」に落ち着きました。ラブストーリーと言われると、そんなことはないよ、と言いたくもなりますが、広い意味では確かにそうなのかもしれません。「ある夫婦とネコの物語」観ていただけたらうれしいです。すでに観た方も、ぜひ「劇場」で。

36回目の「神戸をわすれない」、2月12日に行います!

 鳴かず飛ばずの幻のブログです。何とか生きていますよ、という証になるか、と時には綴ろうと思ってはいるのですが、日々のさまざまな「通信」つくりをついつい優先せひてしまっています。
今年は、阪神淡路大震災から28年目の1月17日でした。どうしようかな、と迷って、やっぱり今年も「神戸をわすれない」と言いたくて、遅ればせながら2月12日に会を開催することにしました。そのお知らせをまず。

第36回 神戸をわすれない のご案内
 2月12日(日)18時~20時半 (開場 17時30分)
 宮坂区民センター 大会議室 (東急世田谷線宮の坂駅下車すぐ) 
 ●「野田北部・鷹取の人びと」第四部(95年7~8月)上映
 ● 「まちづくり」「人の関係づくり」について話そう!
    村本勝さん (映画編集者) 高木史雄さん(若林町会防災部長)
 *参加費(資料代)   500円  *連絡先 星野弥生  070-5554-8433 marzoh@gmail.com 

〇合わせて、1月初めに出した「神戸をわすれない」通信から、近況報告も含めて、少し紹介したいと思います。 

★28年目の神戸  もうやめようかと思っていたのですが・・・
世の中、どこを向いても「おめでとう!」とはいいがたい状況が続いています。去年もそう書き始めました。しかし、コトの次第は、さらに深刻化、重大化しています。コロナ、ウクライナ、統一教会、防衛予算増強、原発推進・・・。この一年の間、どれほどの課題を私たちは突き付けられたことでしょう。なのに、人は次第にあきらめ切って、思考停止に陥っているようでもあります。27年間続けてきた世田谷での「神戸をわすれない」会をもうやめようかしら、という考えが頭をよぎりましたが、やっぱりこういう時代だからこそ、細々とでも続けるべきなんじゃないか、と気を取り直しました。人がたくさん集まらなくてもいい、来れる人だけでも「神戸をわすれない」ことを共有したい、そんな思いです。1996年から開いている会なので、もうネタ切れですが、繰り返しでも「映像」の記録に接して、記憶をあらたにすることの意味はあるだろう、と思っています。何度観ても、28年前からの連続した「まちの再生、復興」のようすがよみがえります。決して過去のことではない、今の「まちづくり」のことであるに気づかされます。今年も世田谷でそういう思いを共にできれば、と願っています。
 この「通信」を書き始めるのには勇気がいりました。35回目の「神戸をわすれない」会のお知らせをしなければ、と昨年のお正月になって書きだしたのですが、パソコンをたたく私のうしろには、具合が悪く、危篤状態という私の最愛のパートナー、ネコのチャロが^お布団の中に横たわっていました。そして、休み明けの4日に病院に連れて行くまで、なんとか持ってほしい、と願いましたが、3日の夜、急にかぼそい声をあげて、身をよじるように、天に駆け上がっていきました(と私には思えました)。通信は途中でしたが、それをなんとか数日後に仕上げ、発送しました。本当に辛いことでした。1年経っても辛さ、寂しさはそのままです。「神戸をわすれない」の画面に向かうと、彼女の最期をいやでも思い出してしまいます。でも、2年半前に旅立った夫とともに、チャロは「ちゃんとやるんだよ」と私の背中を押してくれていると信じ、うん、そうだね、今年もやろうね、とつぶやきます・・・・。
 湿っぽくなってしまって、すみません・・・。「神戸」に話を戻します。「阪神大震災」は私にとってはとても大きなできごとでした。直接的には、1993年にスペインの「ベンポスタこども共和国」のサーカス団「ロス・ムチャーチョス」の日本公演というとてつもない大きなプロジェクトを実現した時に、最後の公演地となったのが神戸でした。ポートアイランドのワールド記念ホールでの9日間の公演に先立つ歓迎会、そして歓送会が長田のカトリック鷹取教会で行われました。最後の夜の大国公園での盆踊り、くす玉割は忘れられません。ベンポスタの子どもたちが地域の人たちとまじりあって河内音頭をリズミカルに踊りました。1995年1月17日未明のまさかの地震、燃える長田のまち、鷹取教会、大国公園がテレビに映し出されました。たくさんの友人たちのいる神戸。大好きな町でした。映画「ベンポスタこども共和国」を作った青池憲司監督は、地震の直後、なんとか鷹取までたどり着き、ホームビデオで鷹取・野田北部地区の様子を撮影し始めました。一年後、神戸のことを忘れたくないと思い、世田谷から現地にボランティアに赴いたさまざまなグループ、個人によびかけて、第一回目の「神戸をわすれない」集会を開催しました。30分ほどの、神田神父(私たちはカンちゃんと呼んでいる)がタオルを巻き、長靴をはいて登場する「鷹取からのビデオレター」を上映し、プレーパークや児童館からボランティアで行った仲間たちの報告をききました。それは世田谷区内での横のつながりを作っていくのにもとても役立ったと思います。27年前のその日のことは昨日のことのように覚えています。ヒゲさん(澤畑さん)とのその後の関わりもこの会から始まったと思います。
 青池さんとスタッフ「青池組」は鷹取教会を基地にしながら、連作記録(記憶)ビデオ「人間のまち、野田北部・鷹取の人びと」を14巻まで作成。私は、あらたなビデオが完成する度に、世田谷で「神戸をわすれない」会を開いてきました。神戸の震災から学び、まちの復興・再生に向けた「まちづくり」の経験を、私たちの地域で伝えていくことが、非被災地である東京でまずできることだろうと思ったからです。2011年に、さらに大きな東日本大地震が発生し、青池組は津波で大変な被害を受けた石巻の門脇地区で、門脇小学校を中心にした地域や住民の復興の道のりを撮影し、映画を作りました。それらを上映し、被災地の様子に耳を傾ける「神戸をわすれない」会も何年間か行いました。でもいつも会の名前は「神戸」。
 震災から四半世紀が経った2020年に「野田北部・人とまちの今」を上映し、監督と早稲田大学の佐藤滋さんにトークをしていただきました。2021年、2022年は、コロナ禍にもかかわらず、「阪神大震災  再生の日々を生きる」の上映会。不思議なことに、「神戸をわすれない」にはご常連が何人もいるのです。私は、年に一度でもここで同じ思いを持つ地域の人たちが集うことは、きっと「まちづくり」や「人間関係づくり」のきっかけになるだろうと思っているので、その「場」を提供することだけでも意味はあるだろうと考えています。そして、これからきっと来るであろう東京での大震災を「覚悟」し、地域でそれに備えるきっかけになればと。
 「人間のまち、野田北部・鷹取の人びと」は、震災直後からの地域が再生される様子を時系列で追ったものですが、「まちづくり協議会」のメンバーの働きぶり、住民さんたちと役所のひとたち、専門家のひとたちとの本音の話し合いの経過など、何時見てもすばらしく圧巻です。その中のどれかを今回再上映したいなあ、と思って、青池組の編集マン、村本さんに相談したところ、4巻がいいよ、と。私たちの会の履歴を見ると、第三回目の1996年9月27日に第四部を上映しています。95年7~8月の記録です。震災から半年後の記録ですね。「野田北部まちづくり協議会」で大きな役割を果たしてこられた浅山さん、「若手」ナンバーワン?の河合節二さんは、なんどか世田谷に足を運び、ナマの「えぐい」話をたくさんきかせてくれました。お二人とも残念ながら旅立たれてしまいました。とくに河合のせっちゃんは2019年1月の「神戸をわすれない」で、青池さん、若林町会防災部長の高木さん、保坂区長とディスカッションをしてくれました。その翌年だったでしょうか・・・。もう会えなくなってしまいました。今回、画面で彼らの姿と言葉を追いたいと思います。そして、村本勝さんにその当時、そしてその後のまちづくり協議会の話。高木さんには世田谷での「まちづくり」、「防災」での取り組みを、野田北部にひきつけて話してもらえば、と思っています。
 なにしろ、逡巡しながら、やっぱりやろうか、と決めたことなので、いつものことながら、ひどくアバウトな会。「神戸をわすれない!」ととりあえず誓いましょう。 

●「わすれない」と意図的に意思表示するのは、もしかしたらとても大切なことかもしれません。戦争、原発、憲法・・・いろんなことを忘れてしまう、忘れたがっているのが日本の今の姿なのでは、と思えます。だから、あえて「神戸をわすれない」のです。もう復興しているでしょう?との声が聞こえてきますが、この会で応援しながら、どらやきやおまんじゅうを作って下さる「きねや」さんの松田さんと電話で話す度に思います。まちはたとえ復興したようにみえても、人の心や生活の復興への道はまだまだだと。松田カツコさんは、頼みのご主人が5年ほど前に急逝され、店を閉じざるを得なくなりましたが、可能な時は注文すればお菓子をおうちの台所で作って下さっていました。それもだんだん難しくなり、今回は「無理だわー」と言われてしまいました。長田神社のキャラクターのグージー (宮司)の焼き印を押したどらやき、次の機会にぜひお願いしたいです。「2月12日、ご一緒できたらうれしいです。  

       


「世田谷夫婦善哉」上映の顛末、そして「世田谷愛」

滞りがちなブログですが、その通り、9月28日の「世田谷夫婦善哉」の上映会のお知らせをしておきながら、それっきりになっていました。なので少しだけ報告をします。一日三回の上映会に、なんと300名以上の参加者がありました! 平日なのに、午前中の回から前売りチケットなしで直接来てくださる方が多く、びっくりしました。遠くからわざわざ来てくれた友人もいます。鹿児島から、名古屋から駆けつけてくれた大学時代の友人。私のブログで、星野先生が亡くなったことを知り、松本から来られた方も。ずっとご無沙汰だった方とは、一人ひとり、ゆっくり話がしたかった。でも、この映画が引き金になって、またいろいろな関係が築けそうです。
 そして、アンケートやメールでの感想などを見る限り、とても好評だったというのもとてもうれしいことでした。夫のことを描く作品ではあるのですが、彼が余命宣告を受けてから3か月しか生きなかったこともあり、それを補うのは友人たち、気功の仲間たち、そして私の証言や言葉の数々でした。結果的には、たしかに題名どおり、「夫婦善哉」となったようです。「生き方」「死に方」を考える上での示唆になった、と書かれた方もあり、そんな大それたつもりではなかったのに、と恐縮です。「お宅にお邪魔したような・・・」と感想を持たれた方は何人もいらして、片付けもしない、散らかしっぱなしの家によく来てくださいました!夫の72年の歴史を最初から終わりまで知っている人はいないですが、私はまあ50年以上のあれこれは知っています。学生時代の彼を知っている方は、「気功」では名をなした人だったんだ、と驚かれ、気功の指導者としての彼を知る人たちの中には、寮で生活をおくり、学生運動に専念していた彼のことを初めて知った方もいらしたでしょう。「団塊世代」には、自らの歴史を重ね合わせて共感するところも多かったようです。うれしかったのは、「悲しい映画かと思ったら、思いっきり笑えました」「最初から最後まで寝ないで?観ていました」というような感想が多かったこと。それもこれも、40年来の友人である、プロデューサー、監督との信頼関係があり、彼らが「愛」を込めて作ってくれたからだと思います。ネコのチャロが、彼らの「ネコ愛」も手伝って、本当にいい主演女優をつとめてくれました。私は、映画の中で、元気だったチャロと再会してしまってから、寂しさがつのって仕方ありません。夫とチャロ、二人が私を守ってくれているのはわかっているけれど、やっぱりそこに姿を見せてくれないのは辛いです、まだまだ・・・。
 そんなふうだったので、「世田谷夫婦善哉」というタイトルは大正解だったようです。なんといっても「世田谷」でのストーリーですから。多くの方が書いてくださったように、こうなったら多くの方に見てほしいです。私たちを知らない方々にも。どこかで上映会をしたい、とか、上映できるところを知っているとか、情報を寄せていただけたらうれしいです。
 このところ、「世田谷愛」をさらに強めた催しがいくつかありました。一つは、8日の「下北沢の街づくりとは何だったのか?」というシンポジウム。都市計画道路の問題から始まって、みんながつくるシモキタへと結実していった下北沢の街づくりにいたる経過を振り返る、という画期的なものでした。下北沢の道路を中心とした開発問題には行政の姿勢に私も大いに異議があって、説明会や区役所へのデモに参加したこともありました。前区長の熊本さんは一切会うことをしませんでした。それが、今、新たな街づくりでは、もちろん保坂区長の力はとても大きいですが、小田急、京王と下北沢を通る電鉄が共に開発の事業を「住民の目線に立って」実施するようになっていること、住民が街づくりに楽しみながら積極的にかかわっていることは、やはり「下北沢」を愛するからこそ可能なことだと思えます。「下北園蓺部」の活動が素晴らしいです。グレイからグリーンへ、を新しくできた空間に生かしていく考え方は、これからの時代を先取りしていくものでしょう。下北沢から世田谷全体に、ひいては日本全体に広めていきたい思想であり、実践です。 
、「世田谷愛」のもう一つは、昨日「世田谷区制90周年記念」のイベントです。式典は出ずっぱりの保坂展人区長を広いホールの一番後ろから眺めていました。名誉区民として顕彰されたのが、石川さゆりさん、永井多恵子さん、中川李枝子さん、美輪明宏さん。名誉、とかはどうでもいいけれど、いい世田谷人が選ばれたなあ、と思います。第二部は音楽イベント。なんといってもさゆりさんがアコースティックをバックに5曲も歌ってくれたのが最高! 「津軽海峡」に始まり、ラストは「天城越え」。「天城越え」は心底感動して聴いてました。さゆりさんは歌手生活50周年だそうで、それを記念する新曲というのが、加藤登紀子さんの作詞作曲による「残雪」。大好きなお登紀さんの曲とは嬉しい限り。さゆりさんと区長のトークも本当に自然でよかった・・・。その後は世田谷の若いちからをいっぱいに見せてくれた、ストリートダンスや、ゴスペルや、私も取材したことのある「世田谷ジュニア合唱団」、「カシオペア」のお二人、駒澤大学高等学校の吹奏楽・・・。ジャンルを超えて楽しみました。
改めて、世田谷っていいなあ、と。同居者を失って今の家に一人で住むのはとてももったいない贅沢なことですけど、私にとっては最高に居心地のいい場所です。「夫婦善哉」」を紡いだところでもありますから・・・。映画をきっかけとしてまた新たなつながりが出来たらいいなあ。
 
プロフィール

marzoh

Author:marzoh
はじめまして、星野弥生です。さまざまな教育や子どもに関する活動、スペイン語圏の国々と関わるNGO的な活動を通じて、人と人との糊付け役みたいになっています。そんな活動の報告やらお知らせをする場として、ブログなるものに挑戦してみることにします。

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